志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず
- oryza63

- 10月24日
- 読了時間: 2分
これは幕末の思想家「吉田松陰」の言葉である。
去年だかのブログで松陰の「諸君狂いたまえ」について書いたのだが、その言葉が今回の総裁選で使われだため、うちのページも検索でヒットしなぜか大盛況である。
松陰の言葉はいろいろ有名であるがこの「志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず」も知られている。
「溝壑」とは溝や谷間、ドブや川などを意味し、「野たれ死ぬ」ことを意味している。
志のある人は、その実現のために批判されたり攻撃されたり、さらには貧苦に陥ることも覚悟し、自分が死んでその死体がその辺のどこかに捨てられ晒されることさえ覚悟している、という意味である。
昔の関西の落語家の話で、「落語家になりたい」と入門を希望したらそこの師匠に「末路哀れは覚悟の前やで」と言われたというのがあったが、それと似たようなものである。
さて、松陰は安政の大獄に連座して捕まり死刑となる、この時29歳であった。
その際、伝馬町牢屋敷で子弟に向けて「留魂録(りゅうこんろく)」という書を正副二簡を書いた。
一通は処刑後、門弟たちに渡るがやがて行方不明となる。
そしてもう一通は、牢屋にいる時に一緒にいた沼崎吉五郎という罪人に預ける。
沼崎はその後、三宅島に遠島となり褌に隠し続け維新を迎える。
その後、明治7年に東京へ戻り松陰門下生に渡したことで初めて別本があることが知られたという。
実に17年余り隠し持ち続けたのである。
その後、沼崎吉五郎がどうなったからは分からない。
吉田松陰は歴史の表舞台に出たが、この沼崎吉五郎もそれを裏から支えた人物として惚れてしまう。
山口県萩市の松陰神社にあるのがこの正本だそうだ。
ところで、東京の世田谷区にも松陰神社がある。
それは、ここが長州藩主の別邸跡地であり処刑された松陰を門下生だった高杉晋作らが、この地へ改葬したからである。
歴史を見ると改葬したときここはすでに「長州藩別邸」の跡地だったようで、つまり高杉達は「昔は長州藩の土地だった」というだけで、勝手に空き地に埋めて墓にしてしまったのである、迷惑な男である。
まぁ、「おもしろき こともなき世を おもしろく」という辞世の句を残すくらいだから物事を自由に考える人間であったのだろう。





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