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「歴史とは過去との対話である」、E.Hカーの言葉より

執筆者の写真: oryza63oryza63

E.Hカーはイギリスの歴史家・国際政治学者・外交官・随筆家だった人で、彼の著した本のタイトルが「歴史とは何か」だった。

その中で言ったのが「歴史とは過去との対話である」という言葉。


そんな訳で、今住んでいる埼玉県本庄市の過去をいろいろ見聞きして「過去と対話」したのである。


本庄市は江戸時代に交通の要衝として栄えた町で、中山道最大の宿場町、本庄宿であった。

それくらいは知っている、と言う人もいるだろう。

町をウロウロして端から端まで移動して見ていると、不思議な地名が随分とあった。

浅見(あざみ)、蛭川(ひるがわ)、五十子(いかっこ)、なんだこれは?である。


本庄は平安時代から鎌倉・室町時代にかけて、武蔵七党という地方豪族集団のうちの児玉党集団の拠点であった。

児玉党の頭目は「児玉氏」であり、それを宗家として血統が続いていた。

児玉氏・庄氏・蛭川氏・阿佐美氏・秩父氏・倉賀野氏などたくさんいた。

このうち庄氏から枝分かれして「本庄」を名乗った血筋が本庄市の大元のようである。

今挙げた苗字はこの辺一帯というか、埼玉北部から郡馬にかけて地名として残っている。

特に北部の児玉町あたりだと「地名=児玉党の苗字」であることが多い。


また、五十子(いかっこ)という地名は、古い書物などでは「五十日をイカと読むのは、子供が生まれて50日目に祝事となる為」とあって、ここら辺と関連して縁起の良い名称らしい。

地名としてはそんなに有名ではなさそうだが、室町時代中期にはここに城があって、「五十子の陣」と呼ばれていたそうである。

室町時代末期に始まった「戦国時代」は京からであるが、それが全国に飛び火する中で「五十子の戦い」というのが東国での戦国時代の始まりであったようだ。

なんと、本庄市のこの地域周辺が、東国での戦国ブームの先頭を走っていた訳である。


また本庄市には古墳がやたらとある。

さらに言えば、群馬県にはもっとある。

それも、縄文・弥生・古墳期と勢ぞろいしているのである。

ここら辺もなかなか興味をひく。


時代は下って江戸時代の本庄宿は中山道最大の宿場町であったと言ったが、そうなると遊郭も中山道最大規模であったのである。


この地はけっこうオモシロイ。

東京もオモシロイがここもオモシロイ。




 
 
 

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