DVやモラハラ虐待といった酷い環境の中で暮らす人の場合、離婚や別居といったその環境から抜け出すことを考えると思う。
それができない時、過去からされてきたことへの怒りや恨みといったものがどんどん湧き出て来て「ぶっ殺してやりたい」といった感情も出て来る。
また、その環境にいる自分を哀れに思い続けることもある。
そりゃ当然のことだが、中には「今のこと」「これまでのこと」よりもこれからの事に目を向けている人もいる。
この先どうやって生きて行くか、どんな仕事に就くか、楽しい未来はどうやったら手に入れられるかといったことをメインに考えている人というのがいる。
どこが違うのだろう?
フェスティンガーの認知的不協和という理論がある。
これは例えばAとBという二つの選択肢があって、片方を選ぶと「あっちを選べば良かったんじゃないか」という思いが出て来て混乱してストレスになるというもので、そのストレスを軽減するために「もしあっちを選んでいたら悪い結果になっていたかもしれない」と思い込んで「やっぱり自分の選択は正しかった」と安心させる、というものである。
イソップの「酸っぱい葡萄」の話しもこれである。
酷い環境から抜け出せない人、今のことに愚痴をこぼし続ける人、怒りで恨みや復讐を考える人も、その選択をしてそれを正当化しているのだと思う。
では、未来を考える人はどうかというと、やはりこれからの将来の事を考え、それを正当化しているのだろう。
そしてここに「フォーカス」という考えも加わる。
フォーカスとは「何に焦点を当てるか」「何を中心に考えるか」といったもので、過去や現状にフォーカスすれば「イヤな現実」「屈辱や怒り」が大きく見えて来る。
将来にフォーカスすれば、明るい未来を手に入れる事を中心に考える事になる。
認知的不協和が起きて、自分を正当化する考えを引っ張り出す時に「何に」フォーカスするかでその後の行動が決まって来る。
だったら恨みを晴らすことと明るい未来をフォーカスすればいいだろう、と思うがこれは至難の業というより失敗すだけのようだ。
さらに二つの極論を持つことで混乱からストレスに進んでしまうようで、どちらか一つに焦点を当てる、どちらか一つを取るしかないようだ。
「この先」のことを考える人の場合、今までのことは「水に流す」のではなく、今は考えない事にしているようで、そんなことよりも早く良い環境を手に入れるために「一時的」に焦点からズラしているように思える。
離婚や別居できなくても、一緒に暮らしていてもそれができる人がいる。
未来に焦点を合わせると同時に、相手を自分の視界から追いやってしまうのだ。
不思議なもので、こういった人は過去の出来事を忘れることができてしまう。
そして自分の環境をどんどん変えていくのである。
毎日監視されて、という人もいるがそれでも頭の中から消し去ろうとしたり、だんだんと薄れていく人もいたりする。
「そうやって配偶者を無視するのは良くない」「倫理的にまずいだろ」という人もいるだろうが、そんな環境を作った相手にだって責任がある。
そこは無視してこちらの責任や倫理を問うのは心外である。
何に焦点を合わせるか次第で自分の人生が変わる。
過去や現状を憂いても嘆いてもいいし、恨んでもいいし未来を向くでもいいのである。
それは自分が決めることだ。
その考え方、フォーカスの仕方次第で現状から抜け出る速さが変わるのである。
Comments