陰謀を絡めていろいろな事象を説明すると一気に「陰謀論」ということになってくる。
陰謀とは策略のことだが、そこには「悪い」イメージでの策略がある。
悪いイメージとはいっても、AがBに陰謀を企てる場合、どちらが「善か悪か」なんてワカラン。
仕掛ける方が「自分が善」だと思っているし、仕掛けられた方も「自分こそ善」と思っている。
だから善悪のイメージから考えるのはは愚かな事であろう。
陰謀をというと英語で「プロット」とか「コンスピラシー」というが、陰謀、策略、謀略、謀議などイメージ的にはよくない。
だからそういう時は「戦略」というのである。
これで一気に「正統」な戦い方になった気分である。
また、プロットといえば小説などの「基本的な建付け」「設計図」とでもいえよう。
だから「あれは陰謀だよ」と言う人の中には、この言葉を多用することでイメージを受け付ける「係」のような人間もいたりする。
フライングモンキーとでも言おうか、そういう「先兵」である。
そこにみんなが集まり、騒ぎが起きればしめたものである。
そもそも「陰謀」と言い出したらキリがない。
誰が首謀者か分からないものが陰謀なんだから、なんだって陰謀にすることができる。
おれがある日、朝マックを食べたとしたら「それはマックと広告代理店の陰謀」かもしれない。
西友で買い物をしたら、それも何かの陰謀かもしれない。
そうやって「何か」に繋げて、いろいろな解釈を作って行くことができる。
繋げようが無くなったらどうすればいいか?
簡単である、「神」に仕業にすればいい。
「神がそうしろと言った」
「神が望んだ」
「神が導いた」
などいろいろある。
「くだらねー」と思うかもしれないが、そうすることで何でもかんでも「神」のせいにできる。
だからそういう時のために人間は「神」という存在を作ったとさえ思える。
1960年代だったか、富士山で当時のBOAC機が墜落した時の事故報告書だったかでダウンバースト等分からなかった時代であるが、墜落原因に「神のなせる業」とか書かれていたよね。
白人はけっこうこんなインチキのために神を使うことがある。
それは日本人だって同じであろう。
神がいるかいないか、ではなく、それをどう利用しているかだ。
布施集めのために、無定見に生かすため「神」という存在を利用している宗教団体なんぞそこかしこにある。
善行が大事とは言いながらも、布施という金に執着するのはどうしてか?
規模が大きくなってきた時、それぞれの善行を見定める事なんぞできないし、誰かの申告としてもウソかもしれない。
本来は善行を基に褒めたたえたりすべきだろうが、そんな事が出来なくなった。
となると「一目」で分かる判定基準を作らないと話しにならん。
それは何かと考えたら「金だ」となっただであろう。
何でもかんでも陰謀に繋げていけば、それなりにストーリーは出来上がるし、後から加入した連中が続編も作ってくれるので「言い出しっぺ」が大変なのは流れができるまでである。
新興宗教も似たようなものだし、新興でなくとも昔のの新興宗教である「キリスト教」や「仏教」だってそうして大きくなったのである。
陰謀というと人間が作るものと、誰もが思っているがもしかしたら森羅万象すべてで陰謀があるのかもしれない。
太陽黒点が11年周期で増減するのは太陽の陰謀かもしれん。
オリオン座のベテルギウスが終末を迎えるのも宇宙を司る「神」の陰謀かもしれん。
夏のゲリラ豪雨は各地の水道局合同の陰謀か、それとも超大手の洗剤メーカーの陰謀かもしれん。
ただ、串カツ田中とか吉野家の陰謀、と考える人はいないのが不思議である。
何だってアリなんだから、思う人もいるはずだろう。
まぁとにかく、何でも陰謀に繋げることはできるし、そういう話の方が人が集まって面白いんだしな。
ただそれに振り回されているんじゃなくて、自分で陰謀論を作り出して吹聴する方がいいなじゃないかい?
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