武家だろうが庶民だろうが、離婚はあった。
武家となると「家」が関係してきて面倒ではあったが、それでも離婚があった。
これが庶民となると「家」よりも簡単?だったようだ。
「三行半(みくだりはん)」という離縁状を相手に出し、合意すればそこで離婚成立。
この三行半についてはほぼ定型のようで「●●は勝手な都合で離縁します。これ以降相手は再婚するのは勝手です」といったものだったようだ。
これは「妻」が再婚する権利を保証したもの、らしい。
これは男性側から出す事になるが女性だったらどうするか?
夫が出した三行半の「受け取り拒否」をして居座った妻もいたようだ。
また、結婚する時に日付なしの「三行半」を貰っていたケースもあるようだ。
つまり、結婚する時に離婚届け(日付なし」を貰っておくという「超合理的」な事をしていた連中もいたようだ。
さてここで、DVモラハラが酷く、虐待されていた妻はどうしたか?
よく知られているのが「駆け込み寺・縁きり寺」の利用である。
関東と関西の二か所だけだったらしいが、ここへ行って話しを聞いてもらい、寺が本人に成り代わって夫に書かせる、しかもその時、住んでいる町の名主等に書類を送り、回答を求める。
ラチが開かなければ寺へ呼び出す、出頭命令が来る。
これに応じないとどうなるか、寺なので寺を「寺社奉行」に要請を出し、奉行直々の呼び出しとなった。
ほとんどは、縁きり寺からの要請が来たら名主等が本人を説得し離縁状を書かせていたそうで、けっこうあっさり完了していようである。
離婚してもその後の生活費が困るだろう、と思うかもしれないが、この点もオモシロイ。
結婚時に女性が持参金を持って入るのが一般的だったので、離婚時にはそれの返却をしなければならなかった。
さらに夫婦共働きなら、今の財産分与のように結婚後に作った財産を分けるように決められていた。
たとえ家を出たとしても、女性の働き場所はいろいろあったし、手に職のある女性はそれで生計が立てることができた。
江戸時代はほぼすべての人が「新しい着物」なんか買えなかったので、着物は古着の仕立て直しである。
裁縫技術を持っていれば、仕立ての仕事で稼げたようである。
男は大工仕事、女は裁縫技術があれば一生食いっぱぐれが無かったようである。
だからかもしれないが、女子のための裁縫教室や裁縫学校が盛んだったらしい。
では、女性の地位が下がった、女性の財産権が無くなったのはいつか、というと明治維新後、西洋の考えが入ってきてからのようだ。
良妻賢母という言葉があるが、これも明治維新後の西洋思想であって、江戸期にはそんな考えはなかった。
こうやって見てみると、如何に学校で教わってきたことがいい加減でペテンであったかが分かる。
今の時代と比べても楽しい時代だったようだし、女性の権利も遥かに強かったのである。
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