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文章を書く力はどうやってつけるか

「文章力がどうのこうの」「読解力がどうのこうの」と言われるが、そんなのは子供の頃の読書量に比例しているとオレは思う。

そこにさらに「書くこと」の量も比例しているだろう。


「それならオマエはそんなにたくさんの本を読んだのか」と言われそうだが、そんなに読んでいない。

読んでいない、というよりも他の子供よりも量は少なかったであろう。

ただ、他よりたくさん読んでいたのが学校の教室にあった「学級文庫」の中の百科事典はいつも読んでいた。

特に科学や地理についての項目はいつも読んでいた。

機械ものが好きだったからかもしれんが、読んでいた。


そして中学当たりになると少しは他の分野も読む事はあったが、相変わらず科学分野専門であった。

普通の小説を読む用になったのは高校からだな。

それも世界史の先生が授業で必ず「この時代を背景にして書かれた小説」を紹介していて、授業よりもそっちの解説の方が多かったせいか興味を覚えたのである。


大学行ってからは、たまたまバイト先で保管していたお客の忘れ物の本、池波正太郎の鬼平犯科帳の単行本があってヒマつぶしに読んだら面白かったので、他の巻を買って読んでいってそこから時代小説や古手の本を読むようになった。

しかし、一番の刺激というかキッカケは大学(工学部)の実験の担当教授が、


「工学部の学生はレポートを書かなければならない。そのためには言葉をよく知り、レポートを読む側がその光景を想像できるような表現、適切な言葉を使えないといけない。だから工学部の学生は文系の学生よりも遥かにたくさんの小説を読みこなしておかないと使いモノにならない」


という訓示を垂れたのがキッカケではなかろうか。

そこからセッセと読んで、言葉磨きをしたようなものである。

セッセとは言っても「義務」からではなく、なんとなくオモシロイ本に巡りあったからできたのであろう。


また、読む以外に「書く」事であるが、小6の頃に「日記を書く」という授業があって、それでだいぶ添削され、自分の文章力がどうしようもない低レベルであることを認識させられ、そこらへんからチマチマと日記を書くようになって、20歳くらいまで毎日書いていたのである。

これが意外と「書く」事の下敷きになり、そこに読書で得た表現を混ぜる事で「少し」はマトモに書けるようになった次第である。

日記はかなりいいモノで、後から読み返してその時の気持ちが浮かんで来る、呼び起こすことができれば「良い文章」といえるだろう。


50~60歳になって「今からでは無理」と言う人もいるだろうが、そんなことはない。

読んで、書いて行けばいいだけである。

日記だって1日のことをダラダラ書くのではなく、一瞬を切り取って、そこに感情や思いを乗せればいいのである。


「一瞬を切り取る」のは写真撮影も同じである。

ナンダカンダとごちゃごちゃ入れるのではなく、言いたい事、見せたいものを切り取る事が重要なのである。

小6の頃からよく行っていたカメラ屋のオヤジが、小学生のガキであるオレに常々言っていた言葉がこの「一瞬を切り取る」である。


書くことでも「言いたいこと」という「一瞬を切り取る」のが重要である。

しかし、おれも歳を取って来て切り取りがヘタになっているので、「牛の涎じゃあるまいし」と言われそうである。

言われそうというよりも、言われているだろうな、などと思いながらブログを書く始末である。



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