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幸福な家庭はどれも似たようなものだが、不幸な家庭はいろいろな理由で不幸である(トルストイ)

  • 執筆者の写真: oryza63
    oryza63
  • 2024年9月3日
  • 読了時間: 2分

トルストイの小説「アンナカレニーナ」の冒頭部分である。


この間の日曜日、近くにあるショッピングモールに出掛けてブラブラしてみた。

数時間、館内をウロついたり行き交う人や家族を見ながら浮かんだのがこの言葉である。


休日に家族でモールにやってくる人はある意味「幸福な家庭」と言える。

不幸な家庭はもはやバラバラであり、揃って来ることもないかもしれない。

来ることさえないかもしれない。

金銭的な理由もあれば、家族の人間関係もあるだろうし、家族が欠けてしまっているのかもしれない。


家庭という単位が持続する人もいれば、オレのように消えてしまうような人もいる。

家庭という集団は必要なのか、それではなく気持ちが通じ合う集団というか小グループでもいいのかもしれないし、もっと小さい単位で二人程度のグループでもいいかもしれない。

幸福とは何かと考えると、


ソクラテスは

幸福とは報酬や賞賛から得るものではなく、個人が自分自身に与える内部的な成功から得られるもの、と説いた。


アリストテレスは、

幸福とはだれもが求める目標であり、それが究極目標であること、何かほかのものの手段にはなりえない点にある、と説いた。

ニーチェは

は抵抗することで主体性を取り戻すことができる。その自我の意識が幸福につながる、と説いた。


孔子は

幸福とは自己実現の「夢」を持つことにある、と説いた。


老子は

完全なる集中を要する活動、例えば、「いい会話」「クリエイティブな仕事」「セックス」などを行なっている時に、人は最も幸福を感じる、と説いたそうだ。



ますます分からなくなってきた・・・・。



 
 
 

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