top of page

寺の山門で涼みながら思った事

うちから3キロほど離れた場所に寺がある。

東京はあちこちに寺や神社があるので、ちょいと散歩に出ればぶち当たる。

この寺の山門は、夏場だとちょうど風が通り抜けとても気持ちがいいのでちょくちょく出掛ける。

涼しい風と、木の香り、それも古びた匂いがヤケに落ち着くのである。

この山門付近に腰かけて境内を見回すと、奥の一角に墓石が綺麗に積まれている。

墓守というか、縁者がいなくなった墓を仕舞った名残であろう。


東京には都営霊園という大規模霊園があり、うちの近くにもある。

そこはよく散歩したり通り抜けたりしているのだが、ここもやはり縁者のいない墓が多い。

核家族が進めば、皆が墓の近くに住むわけでもないので墓参りも年一回程度からもっと間が空いて、やがていかなくなり、そして関係者も死に絶えてしまう。

だから墓仕舞いというか、撤去となるわけだ。


オレも時々親戚から「見て来てくれ」等と言われ掃除がてらに行くのだが、どこもかしこも墓仕舞いである。

さらにいえば、オレの「父方・母方」双方の墓を知っているのはオレだけなので、これもそのうち無縁墓になるだろうな。


そんな事を考えながら撤去した墓石を見ていたら、「自分はどうする?」と考えた。

墓なんぞあっても誰も来なければ、縁者がいなくなれば撤去されるだけである。

そんなものに金を掛けるのもアホらしい。

よく、樹木葬とかあるがあれも最終的には無縁仏となるし、どこかに散骨してもらうのも大変である。


そもそ仏教では墓なんぞ無かったが、日本へ伝来して来る途中や来てから神道と混ざり合って墓ができたと言われる。

「人間至る処青山有り(じんかん いたるところ せいざんあり)」で、死んで骨を埋める所はどこにでもあると言われたのは昔である。

死んでからも「定住場所」に苦労するのはタマラン。

いっそのこと「水葬」にして海に流してもらいたいものである。

それなら、千葉県野島崎沖400キロ当たりの、昔は「魔の海域」と呼ばれた付近にして欲しい。



閲覧数:4回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Commentaires


bottom of page