病気や精神疾患は別として、他人を攻撃する人、そんな輩にくっついて一緒になって攻撃する人。
徹底して叩き続ける人、というのがいる。
自己愛から来ている、そういう資質を持っている、アスペだから、といろいろな考え方はある。
果てしてそうなのか、と思ってこの所、過去の心理学・哲学・宗教学についての本をひっくり返して読み返してみた。
それで思った事、
人は常に「心の拠り所」を求めている。そして誰かに「すがりつきたい」「頼りたい」という思いを持っている。
その拠り所というのは「誰かに大切にされたい」「誰かに愛されたい」というものである。
ここでいう「愛されたい」というのは肉体的(性愛:エロスの愛)よりも慈愛(アガぺの愛)を求めていると思われる。
他人を攻撃したり嫉妬する人の場合、自分が愛されていないことでの欲求不満から怒りが湧いたり、世の中全般を嫌うことで厭世的(えんせいてき)になって「どうでもいいや」という気持ちが湧いている。
ただ厭世的になると悲観的にもなり孤立感も増してくるので、より「心の拠り所」を欲する。
そんな時に、楽しそうな人、成功している人、周囲から褒められている人を見ると、自分がこんな気持ちになるのは「彼等」のせいだ、と考えてしまい攻撃的になるのだと思われる。
世の中とか政治とか経済とかに不満を持って、攻撃的な発言をしたり実際に誰かを攻撃する人って、自分を満足させてくれる「何か」が足りないからそうなるのだと思う。
その「何か」とは誰かに愛されたり必要とされることではなかろうか。
藤沢周平の時代小説に、藩の要職を退いた年寄りの言葉で「自分が必要のない人間になったような気がする」というのがあった。
今でも高齢者の中には「自分が無用者、不要な人間」と感じて攻撃的になる人もいる。
必要とされない、と感じることは物凄く「敵対心」というか「反社会的」な行動を湧き起こすのではなかろうか。
恋人がいても攻撃的な人もいるが、それは相手にそういう姿を見せて満足している、という事もあるだろう。
しかし、相手からの愛情、その内容に満足していないからではなかろうか?
ちょうど背中が痒くて誰かに掻いてもらう時、「そこだ!」というポイントと大抵ズレている。
「そこじゃない、もっと右だよ」等と言いながら掻いてもらうのと同じように、相手からの愛情のポイントが自分が求めているのと違うことでの苛立ちから来ている。
そこがベストマッチしている人は落ち着いた雰囲気を持っているし、他人を攻撃しないし、嫉妬もしないようだから、やっぱり愛情が足りていない人が多いんじゃなかろうか。
満足というのは、お金ではない、地位でもない、ガールフレンドやボーイフレンドの数でもない。
多くの人は「そこ」に目が行くがオレが会ってきた人の中には高収入もいたし、地位のある人もいたが、満足度は低く常に「何か」を求めていた。
それが拠り所であったり、頼る相手だったり、愛情を供給してくれる相手だったりもしたが、金が地位なんかではなかったのである。
やっぱり人が求めるのは愛だよ、愛情だよ。
これを読んでいるあなただって、慈愛とか愛情をたくさん貰えたら落ち着いて満足するんじゃないかな。
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