人格として考えると、意識している自分と無意識の自分とでも言った方がいいかもしれない。
時として、「えっ、自分ってこんなことをするの?」と思うようなことがあって驚く事があるだろう。
読書が大嫌いだったのに、たまたま読んだ本が面白く最後まで読んでしまった、といった事もあるだろう。
これなどは、読書嫌いな自分がなんで最後まで読んでしまったかと不思議になるが、読んでしまった自分は「無意識下」にあったもう一つの人格である。
過去に会ってきた人の中にも「絶対にイヤなのにしてしまった」といって不思議がる人もいたが、それも無意識下の自分の仕業であって、理性が抑えていた自分でもある。
理性が抑えている部分もあるし、嫌いだと思い込んでしなかった面もある。
どちらによせ、本人は「そんなことしない」はずなのにしてしまうのである。
無意識とは別に「理性」で抑え込んでいる面は常に、誰にもあってそれを抑え込み過ぎると反動として表に出てくる。
そしてそれが本当の自分のようになってしまい、善良で理性的な自分が消えていくことになる。
それを防ぐには、自身がそういう面がある事を理解し無理に押さえるのではなく、適度に放出することであるがそれは誰かに話すことが一番効果的解消法と言われている。
隠せば隠すほど強い反発を持ち、いつかは表に出始め、そのうちにそれが表の顔になっていく。
自己愛性パーソナリティー障害の人間と同じ道を行くことになる。
人間の二つの人格とは「第一の人格」と「第二の人格」であり、これはユングの提唱したものである。
第一の人格はいつもの顔であり、善良、常識を持ち、優しいといったものである。
第二の人格は第一人格の正反対のもので、陰険、非常識、悪意、敵対心といったものがある。
ユングによると人はこれらが常にバランスして一つの人格を形成していて、バランスが崩れると第二人格が表出してそれがメインとなる。
バランスが崩れる、というのは第一人格をもっと前面に出し、強く保とうとすることで起きる。
それによって裏の人格が出始めるが、その時精神的なバランスも崩れ、うつ病などを発症する。
ポジティブになろうと頑張ることでネガティブな面を抑圧し、それが反動となって強く出てしまう。
だから「もっとポジティブになろう」といのは無理強いをすることになり、精神のバランスを壊す行為もであるという。
「ネガティブな自分がイヤだ」という人もいるが、それがあって自分という人間が形成されいている、ネガティブな面があってこその自分である、と認識した方がよさそうだ。
何事も無理は禁物である、自然体が一番いい。
オレなども「沈思黙考タイプ」と思われがちだが、誰かと喋っていないと頭が回らんし、落ち着かない事も多い。
ただ仕事で話しているのとは違い、個人的に分かってくれる相手でないと平静を保つのは難しい。
仕事で一日中話していても、気分はスッキリしないのである。
探偵とか相談なんぞしていると友達は減るわ、付き合う相手も減るわで非常に苦痛に感じる事も多い。
こんな事をしているとオレの第二人格が顔を出し、暴走するようになるかもしれん。
恐ろしいものである。
Commentaires