不倫は「是か非か」という話
- oryza63
- 5月22日
- 読了時間: 2分
是か非かというと二極思考のようになってしまうが、長い事探偵をやってきて浮気するオッサンや不倫している女性をいろいろ見てきた。
オレが見てきたのは「遊ぶ女がいないとダメ」というオッサンばかりであったが、こういう場合の不倫は「ダメ」だろうな。
それ以外にあるのかというと、「愛情(癒し)が欲しい」というのがあって、それも家庭があってダンナがいるのに欲している人がいる(当然女性だが)。
その中で圧倒的に多かったのが「愛(癒し)の無い家」というものである。
ダンナが冷たい、無視する、DVする、女中として見ている等々、いろいろな形で愛情がない家庭というのがある。
いつも言うように、愛(癒し)を与える側の人間は無限に愛を持っている訳ではない。
その人だって誰かから愛(癒し)を与えられることで「補充」されると言ってもいい。
家庭運営だって家族への愛が無けりゃできないと思う。
となると、その本人への愛(癒し)の補給が無ければいつかは底を尽きスッカラカンになる。
なったらどうなるか?
大抵の場合、鬱になったり自己肯定感を失くしたり、カサンドラ症候群になったりして意欲を失い始める。
ここで言う愛とは、肉体的なものばかりでなく精神的なものも含めてである。
これらは人にとって一番重要なものであって、生きて行くための必要要素である。
となると、愛(癒し)の無い家では「生きて行く気力」が萎え、自分の存在を否定することにもなる。
そんな状況で「ガマンしろ」というのは酷であり、人間の本質を見ていないことになる。
さて、法律的、道徳的、倫理的には「外に愛を求める」ような不倫はイカン事になっているが、それはやっぱり人間の本質から外れているように思う。
最初に書いたような「あれもこれも好き」といって浮気しまくるのは論外として、存在を肯定してもらうような行動はむしろ人間にとって必要なものだから許されるべきものだと思う。
こんな話は19世紀、20世紀の本でもあった。
イプセンの「人形の家」然り、エリカ・ジョングの「飛ぶのが怖い」然りである。
だからなのかオレは「家に愛(癒し)が無ければ外で補給しろ」とか「愛(癒し)のアウトソーシング」等と言っているのである。

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