埼玉県北部に引っ越してきたが、「田舎」だからツマラン、等と言っていてはイカン。
ツマランと言っている人間に限って楽しい物を見つけ出す能力に欠けてるし、餌を口に入れてくれないと騒ぐガキと同じであろう。
ということで今日は住んでいる本庄市内をブラついてみた。
本庄市は江戸時代の五街道である「中山道」最大の宿場町であった。
そのため商業も発達したし、人の通りも多かったので宿場に必ず付き物である「遊郭」も街道最大規模であった。
そんな古い町を歩いてみると、もはや栄華は遠い昔の話しで、町は寂れている。
それでも朽ちた建物を見て回り、そこに楽しさを見出すのが私の本質である。





こうやって町を歩いていたら、小さな神社ならぬ「社(やしろ)」があった。
案内版を見てみると「天正19年(1591年)に建立されている。
この社のある丘のようなものはなんと「古墳」である。
埼玉北部から郡馬にかけての地は「古墳」が無性に多いのである。
古墳とは古墳時代に作られた墳墓である。
古墳時代とは3世紀中頃~7世紀頃であり、弥生時代の後、飛鳥時代の前の大和時代を指す。
この時代に作られたも墳墓だけが「古墳」を呼ばれる。
ではそれ以外の時期に作られた墳墓は何というか、というと「墳丘墓(ふんきゅうぼ)」となるようだ。


神社の神木とされている欅の木の根元にあった庚申塔。
立てた時期をみると「安永5年」とある。
安永5年なんぞ知らんわ、ということで調べてみると「1776年」である。
この頃にあったことを見ると
3年:杉田玄白が解体新書を刊行
8年:桜島大噴火
8年:平賀源内没
そしてなんと海外での事ではあるが10年には「天王星」が発見されている。
吉田松陰(1830年生)もまだだし、ペリー来航(1853年)もまだまだ先である。
調べてみるとペリー自身が1794年生まれであった。
明治元年が1868年だから庚申塔を建てた連中は、よもや幕府が崩壊するなんて思ってもいなかっただろうな。
こうやって過去と対話しながら古い町を歩くのは楽しいのである。
今から何百年も前に、この写真と同じような角度でこの社を「眺めていた人がいるかもしれない」と思うとさらに楽しい。
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