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「それは国がやるべき事だ」という考え

貧困問題やら家族問題やらを調べていくと、いろんな意見が出て来る。

その中で多いのが「国がもっとやるべきだ」「国の責任だ」という声である。


いろいろ注文するのはいいが、注文が多過ぎると国の職員を増やすことになって「大きな政府」になってしまう。

一部の国のように国民の8割が公務員になってしまうだろう。


個人的には国は基本方針や法整備、その他支援だけでいいと思う。

実行は民間がすればいいだろう。

もちろん国家体制維持や国際関係は国の直轄事項だから民間には降ろさない。


英語で「シチズン(citizen)」という単語があるが、これは「市民」などと訳されている。

しかし本来は「自治意識のある市民」を指していると言われている。

だから「ただそこにいるだけ」ではシチズンにはならない。


昔知ったものだが、民主主義とは自治意識のある人達によって構成される。

だから例えば、住んでいる地域の町内会で決め事があったが参加しなかった人、これが後になって「そんな事は聞いていない、知らない」というのは認められない。

なぜなら、自治の取り決めをする会合に参加していなかったからである。

参加しないということは、自治意識がないとなって、民主主義に参加する資格がないのである。

人に呼ばれて参加するのではなく、自分から進んで参加しないといけない。


上から言われて行動する、命令に従うという「上意下達」では共産主義や全体主義になってしまうのである。

「国がやるべき」という人は民主主義を望んでいないのではなかろうか。


江戸時代、江戸の町は今の山手通り内側にあたり、それ以外は武蔵の国であった。

この地域を「御府内」といっていたが、そに百万人近くが住んでいた

この御府内を管轄する行政組織は「町奉行所」であり、毎月交代で北町と南町が当番していた。


さらに、各奉行所の人員は総勢250人余り。

奉行所は今の東京都庁と組織と裁判所を合わせたものだが、この人数で回していた。

そしてこのうち警察行政の担当は確か25人くらいだった。

南北合わせて「50人」で江戸を守るのである。


これが言ってみれば国が管理している部分で、その下に民間委託である「目明し(岡っ引き)」がいて、それらがさらに手下(俗称・下っ引き)を雇っていた。

また民事裁判にしても各町内の責任者「大家」などが担当して、いわゆる「お玄関裁き(おげんかさばき)」というもので処理し、それで解決不能であれば奉行所となっていた。

いってみれば、行政が一部民間委託になっていた。


何でも国がやれ、という考えでは国の支出がどんどん増え、結局は税金が上がる事になる。

こういうと「仕事をしない政治家が悪い」と言い出す人もいるが、政治家を選んだのは市民国民である。

「オレは選挙なんか行っていない」という人もいるだろうが、そうなるとそもそも民主主義に参加していないので、とやかく言う資格さえない。


有権者がレベルアップしないと、「政治家は有権者のレベル以上にはならん」という格言通りになってしまう。

政治をバカにし、政治家をバカにしているのは、有権者自身、自分達をバカにしていることになる。


話しが逸れたが、民間でできるものは民間でいいだろう、と思うのだが。






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